韓国で行われている、クローン犬の記事 [01] を読んだ。死んだペットを10万ドル(約1,100万円)で複製するという話。
こういう記事を読むと、4月末に虹の橋を渡ったあげさんのこと [02] を考えてしまうのだけど、やはり私には無理だなと思った。
見た目や動きや声がそっくりでも、それはやっぱりあげさんじゃない。むしろそれは、あげさんでない別の新しい家族として愛してあげないとダメなんじゃないだろうかと考える。飼い主の感情を複製にかぶせても、それは単に飼い主側の気持ちが収まるだけだろう。
記事中、ものすごく気になった文章がある。
飼育担当者は、「育つ環境によって細かい違いは出てくるが、癖や性格はもとの犬とほぼ同じになる」と話す。依頼者からも「もとの犬と同じように動く」と喜ばれるという。
翻訳に難があるのかもしれないと思いつつ、「もとの犬と同じように動く」から喜ぶという状況が私には受け入れられない。そんな言い方、まるで犬が消費物であるとか消耗品であるかのような印象を受けてしまい、とても悲しい気持ちになってしまう。思い出を確認するための命の複製だとか、そういうのはやはり、ダメだ。
そういうことに慣れてしまったら人はその場に留まってしまい、前に進むこともできなくるのではないかと考えてしまう。
記事後半の、軍用犬としてのクローンの有用性のくだりを読んでもそうだ。命がただの都合の良い道具として扱われているのを知ると、いたたまれなくなる。
References
↩01 | 『死んだペットが10万ドルでよみがえる(文字どおり) クローン犬誕生の現場に立ち会った【動画あり】:朝日新聞GLOBE+』を参照して下さい。 |
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↩02 | 『あげさんは虹の橋を渡りました │ 脳無しの呟き《土鍋と麦酒と炬燵猫》』を参照して下さい。 |