ペットセメタリー

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いつものアイコンとスクリーンネーム。それだけしか知らないで何年もTwitter上で相互フォローな関係の人がいる。付かず離れずとは云うけれど、本当にどちらかが気が向いたら会話を交わすだけの関係。そんな人の大好きだった猫が死んだ。

最後の数週間に渡る介護の記録がとてもつらくて何も声をかけることができなかったのだけど、一度だけ「良くなればよいですね」的なことだけは伝えることができた。

話の流れで年齢は聞いた。15歳だったそうだ。正直若いなと思ったのは私の勝手な思い込みで、世の中的には飼い猫の平均寿命。厳しい。名前と性別も聞きたかったのだけど、そのタイミングは逸してしまった。知らない彼の大好きな家族が15歳で死んだということだけが頭の中でぐるぐる。

「ねこがしんだ」とだけ書かれたのをリアルに見てすぐ「お疲れ様でした」とレスをした。お疲れ様でしたとしか書けなかった。

その後の日記でずっと知りたかった猫の名前と性別を知る。彼と彼女の思い出がぼろぼろと流れてきて、私はそれを読みながらずっとあげさんの身体を撫でながらそれを読む。

Twitterで大好きだった家族が亡くなったという話はそれなりに読むのだけど、この人の猫の話がこれほどまでに胸に刺さるのはきっと私が彼と同じようにひねくれ者だからだと思っている。大好きなのに大好きなのに、なんでまだ斜に構えるところがあるんだよ。だから、枯れるまで泣こう。

亡骸を抱えて3日過ごした彼は、彼女を川の近くにある大きな木の下にスコップで穴を掘って埋めた。その様子を書く日記にあった写真、掘られた穴と積み上げられた土の山の高さを見た瞬間に声を出して泣いてしまった。深く掘られた穴の下にそっと置かれた彼女と、そこに最初に土を被せるときの感情を思うとすごく胸が締め付けられた。

ペットセメタリーという映画を思い出した。あれは本当に切ない話だった。

近い将来あげさんが死んだら、というシミュレーションは何年も前から馬鹿みたいに繰り返している。彼女が死んだらカゴの中に入れて花をいっぱい周りにおいてそれをそのまま焼いてもらおう、骨の一部がもらえたらそれをペンダントにしよう。そんなことを考えていたのだけど、土葬された彼女を観たら「自分に対する気持ちの落としどころをどこに置くか」という命題に如何に向き合うかを再考することになってしまった。

ほんとはね、ダメなことだとか知ってるんですよ。勝手に埋めたりとか。Twitterで他の人だけども、死んだ猫を自宅の庭に埋葬したら彼岸花が咲いたって。花言葉は「また会う日を楽しみに」。

どこかでまた会えたら。ずっと向こうで一緒に居られたら。