オウム真理教事件に関して、松本智津夫死刑囚を含む7名の死刑が執行された。NHKのサイトには『オウム真理教事件 死刑執行|NHK NEWS WEB』という特設ページが公開されている。
死刑が執行されたことに関しては、あちこちで死刑制度に関する話が飛び交っている。ここで出てくる話題のひとつとして『加害者側の人権』というものがある。それを見聞きするたびに、私はもやもやする。
- 人権は保障されなければならない。
- 死人には(基本)人権はない。
- 現状の日本において『死刑制度』は存在している。
上記の状況を踏まえていつも思考するのだけど、死刑が執行されるというニュースを聞くたび「それほどまでに守らなければならない人権を奪った加害者に対して、人権を守る必要性を説いてまで彼らを守る必要はあるのか」と考えてしまうのだ。基本的人権の中には『生存権』というものも存在する [01] 。
人間が人間らしく生きていく上で守られるべき権利を奪うとなれば、それ相当の懲罰は必要であろう。現状の日本においては死刑制度が存在している以上、それが執行されるというのは至極当然のことだ。
どのような形であれ生きている人の人権は死守されるとなれば、なぜに被害者の方々はその権利の喪失を死守できなかったのかという話になる。何かしらの対応がなされなければ、残された家族や友人知人の気持ちはどうなるのか。
不条理に亡くなってしまった被害者の方々は、不条理に人権を失ってしまったがためにそれを蔑ろにされてしまい、なぜか生きている加害者側の人権だけが声高に叫ばれることに納得がいかない。
死刑制度に関しての議論があるのはわかる。でも、私にはそこが心情的に納得できない。もし私が被害者の関係者であったら、と考えてしまう。
もし今後、死刑制度が廃止されたとして、それに関しては従うと思う。それでもきっと、被害者側の立場になったら、心の中ではどす黒いものが渦巻くであろうとも思う。被害者側が自身を抑えつけなければならない理不尽さに、気持ちが耐えられるかどうかわからない。
今回の件で私が考えることは、「決められていたことが粛々と実行された」ということである。それ以上でもそれ以下でもない。
References
↩01 | 『基本的人権(きほんてきじんけん)とは – コトバンク』を参照して下さい。 |
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